建物を造ること、それは歴史的に見れば「家(棲家)」にその原点があります。身を守り・家族を護り・部族(種族)を守る。 その原点として家を造り日々の生活を営む。又、日常の中ある社会学習を個体学習に進化発展させ、人間の生物行動(狩る・食べる・子孫を残す・寝る)を担保する為に必要な家は、必然的に造られた(設けられた)ものでした。 洞窟に始まり竪穴式住居や茅葺住居を経て、現代では超高層住宅も庶民生活の基盤としています。近年では、近代建築材料の新たな発見と創造が、素材の発展(技術革新)に支えられ、都市の集積と共に発展を遂げてきました。

人は想像力(イマジネーション)を創造力(クリエイティブ)を以って、形や仕組みにし、多くの財や知財をも便利さを求めて創り出し、時代の変遷と共に進化してきました。 私たちは建築設計という仕事に就き、顧客(依頼主)が求める成果を充分に達成できた時の「伴に分かち合う慶び」は、この上ない喜びであります。又、それを得られる仕事であるとの思いは、建築設計技術者(建築家)としての「誇りと情熱そして拘り」を本分として向き合えることが生きる(活きる)糧でもあります。 嘗て人類は知恵を集めて知識とし、知識を体系化して学問としました。そして現代の民主主義はグローバルスタンダード(必要な時に必要な分だけ必要な時に調達する)を生み出し、「IT・AI」等の情報技術は、その豊かさの栄華と共に人類進化の原点である「想像力・創造力・環境適合力・生殖能力」を、生きるための必然から遠ざける結果となっています。そして自由であるはずの生活は「見えない不自由さ」を包括し、とても窮屈な人生を歩む人たちが増えているのでしょう。 本来、人が人に与えられる最も高い価値は「自由」である筈です。この自由とは社会が成熟していく中で常に求められた「尊厳」に帰結します。又、誰もが等しく知識を育むことが出来る社会の構築は「自由」の次に来る価値であり、その機会は誰にでも平等でなければ為りません。 創和三幸設計は自由な社風を大切にし、またその自由を約束できるだけの技術力を社員たちが常に持ち、そして研鑽していく。そのことが顧客の求める期待に応える唯一の施策であると考えます。加えて社会を捉えその変化に対応する「知識の習得」は、自らの発意によってのみその成果につながります。

人の生き方は「自由と知識」の二つに由って大きく変わる事は歴史が、そして現代社会も示しています。自由は知識を生み出す土壌で有り、知識は自由を作り出すインフラとしてパラレルな関係にあります。自由と知識は迷い(尊敬価値)の原点でもあり尊厳でもありますが、顧客目線で仕事に向きあう技術者としての誇りを持ち続けて参ります。

株式会社 創和三幸設計
代表取締役会長 丸地 博

代表略歴

丸地 博 (まるち ひろし / maruchi hiroshi)
1954年生まれ。愛知県出身の建築家。(一級建築士、日本建築学会会員)

幼少期から社会に出るまで

五人兄弟の末っ子として産まれる。小学校入学直後6歳の時、交通事故で父を亡くす。以後、母一人に育てられ、小学3年(9歳)から中学校卒業までの6年間、近所の新聞販売店で朝夕の新聞配達をして家計を助けた。高校は愛知県立名南工業高等学校の機械科・「定時制」に進学し、働きながら学んだ。
昼間は合板機械開発メーカーで働き家計を助け、夜に学ぶという高校生活を送る。この経験が人生の原点となっている。
この会社は世界的企業であるが、自由な社風の中で「この世に無い」機械の開発や設計を担当し、部品の鋳物作りから鋳物や金属の加工、機械の組立てを学び実践した。無芯ロータリーレースの開発はその成果である。また体得した物理学や社会的視点は物事への改革的思考の原点となった。
卒業後は東京の専門学校の建築設計科に進学する。これは学費を含めた生計の維持はアルバイトでは二年間と考えた事。大学進学の必要性を感じていなかったための選択。 しかし、必要性を感じた46歳で(法政大学経済学部に入学)し、49歳で首席卒業をする。

社会に出たのちの職歴など

1975(昭和50)年(21歳) (株)日亜設計に勤務し「意匠・構造設計」主任を担当(7年在職)
1982(昭和57)年(28歳) 一級建築士資格取得
1982(昭和57)年 (28歳) (株)日亜設計を辞し、(株)類設計室に勤務。取締役構造設計室長と営業担当を兼任(7年在職)。 担当作品は「割烹一山いけす(銚子市)」
1988(昭和63)年(34歳) (株)類設計室を辞し、(株)東急設計コンサルタントに勤務。営業部長(13年半在職)
2000(平成12)年(46歳) 同社在職中に大学卒業の必要性を感じ、法政大学・経済学部経済学科(二部)に進学
2004(平成16)年(49歳) 法政大学を首席卒業(1263名:一部・二部 合同の学位授与式)
2003(平成15)年(48歳) (株)アールアイエーに勤務。 統括部長⇒東北支社長⇒九州支社長(広島支社長兼務)。「経営・意匠・営業」を担当。作品として寿泉堂病院(郡山駅前再開発)、東一センタービル(仙台)、宮若市宮若西小学校(宮若市)、広島駅前Bブロック再開発等。
2014(平成26)年(60歳) (株)アールアイエーを定年退職し(株)翔設計、取締役副社長に就任。建築設計事業本部長を兼務し、組織構築・人財教育・意匠・構造・デザインの総合統括を担当。作品は埼玉県本庄市の「本庄市保健センター」、朝霞市児童館「ほんちょう児童館」、羽村市「羽村市動物公園」など
2020(令和2)年(66歳) (株)翔設計を辞職。
2021(令和3)年(66歳) 株式会社 創和三幸設計、代表取締役に就任。
※幼くして父を交通事故で亡くし、新聞配達などをしながら成人したが 機械の設計、加工、組立・建築設計・経済学・文化人類学を定時制高校・専門学校・大学で学び、働きながら46歳で法政大学経済学部(二部)に入学し49歳で首席卒業した。